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2016年4月30日 (土)

15歳の東京大空襲

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 私の実母は、東京の下町の商売人の次女で、本を読んだり、勉強したりなんてするのは、とーってもいけないこと、店の手伝いをせよ、娘は働け、と育てられたそうです。男の子は、メンコやビー玉で遊んでいても、娘はともかく手伝わせる、という家だったそうで、ピアノを弾いてみたかったし、シモタヤ=家の玄関がしまっている=つまり、店じゃない=おうちがうらやましかった、という少女。休みには、お店のおねえさん(つまり店で働いている人)と一緒に寄席に行ったり、たまには家族とやとっている人全員で、お重のお弁当をもって歌舞伎に行ったり、千代紙なんて売るほど(文字通り売ってたんだろうね)あった、というような妙な暮らし。

 その彼女の人生がガラっと変わったのは、東京大空襲。店も、たくさんの親族も、みーんな居なくなっちゃった3月10日。姉が入っていたどこかの寮(八王子あたり?)に遊びに行ってた兄弟姉妹だけが助かった。東の空が真っ赤に燃えるのを、東京の西から見ていたそうです。

 

 それからの苦難のことは、あんまり詳しくは語りませんが、たいへんな苦労があったことでしょう。私は母方の祖父母の顔を知らないし、お墓も(あるにはあるらしいが、何も入ってないと)行ったことがありません。母方の親戚は、その時、一緒に姉の疎開先にいた兄弟姉妹だけです。杉並区出身の実父にはいる叔父叔母やイトコたち、というものが、実母関係には、まったく居ません。実母は自分や家族の昔の写真や思い出のものを、何一つ持っていません。両親の写真を全く持っていないのです。実母が50代だったでしょうか。戦前に店で働いて東北にお嫁に行ったという「お姉ちゃん」(すでにおばあさん)が、実母を訪ねてきて、働いていたときに店のみんなで撮ったというふるーい集合写真をもってきてくれました。幼い母と、そっくりな若い祖母が居ました。その祖母の年齢を越していた実母が、その頃は気丈なおばさんでメッタに弱音を吐かなかったのですが、その写真を見て涙をこぼして写真を触っているのを見て、彼女が15歳で失ったものの大きさを感じました。

 実父の写真は昔祖父母の家に遊びに行った時に見せてもらって、彼も少年から学生になって大人になったことがわかるのですが(当たり前)、実母にはその軌跡が何も残っていないのです。焼けるということは、そういうことです。人も、家も、思い出のいろなものも写真一枚、ないのです。

 

 私は娘として、彼女がいろんな意味で普通の娘として育ってこなくって、それがとても凸凹していて付き合いにくいこと、現代の生活に適応してない部分など、面倒なこと、暮らしにくいこと、いっぱいあったのです。今では、それも彼女の生育過程を知ることである程度理解ができるようになりました。子どもとしてはしんどかったですけど。妙な虚無感を持っているところとかも、娘としてはしんどかったです。杉並に住んでいて、庭に芋を植えて食べていて、もう芋は食べたくない、という戦争体験があっても、家も親戚も焼かれなかった父とは、同じ東京にいても、人生に対する根本的なところが、どこか違うのです。

 

 そんな実母も80代後半。80歳前後に罹患したやっかいな病気のせいで、ずいぶんと気弱になり、なかなか難しいお婆さんになりました。それでも、彼女の一番強い信念は「戦争は絶対にイヤ」です。どんなに現実の世界のことが難しくなっても、あれこれ対処できなくなっても、これだけはたぶん命の限り、何があっても忘れないし、どんなことがあっても言いつづけるんだと思います。どうしても戦争だけはしたらいけない。

 半藤さんのこの本を見たとき、あー、母と同じ年だと思いました。東京に居たんだって。東京も世田谷とかの焼けなかったところじゃなくって、東側に居て、空襲で焼けたまちに居たんだって。

 人によって、ちょっとした偶然と運命によって全然違うんだろうと思います。実母がこの本を読んだら、全然違うというかもしれないです。それでも、この東京が、そんな風に焼かれて、その下で死体でもない、まっくろな棒があふれるほど積みあがっていた、そんなときが、大昔のことじゃなかったんだ、ということを、ちゃんとちゃんと知っておきたい。その中で泣くこともできずに茫然としていた人が、あたしたちの父母や祖父母であったことも。

 

 この本で、これはちゃんと覚えておきたい、今のあのアベチンが暴れている時期だからこそ、ちゃんと覚えておきたいと、思うことがあったので、引用します。

 これは、大空襲のとき、ちょっとした幸運で命が助かった彼が、たくさんの助からなかった人の遺体とも言えない、黒焦げの丸棒を見て、ぼーっとしていたことの後に、書いています。162ページから163ページにかけての文章です。

――――――――――――――――――――――――――――――

「戦争によって、人間は被害者になるが、同時に傍観者にもなりうるし、加害者にもなることもある。そこがはじまってしまった戦争の恐ろしさなのです。

 そう考えると、これからの人間のすべきことが自然に浮かんできます。自分たちの生活のなかから「平和」に反するような行動原理を徹底的に駆逐すること。そのことにつきます。何よりも人間を尊重し、生きることの重みをいつくしむこと。それ以外に戦争を止める最良の行動はありません。ふだんの努力をそこにおくのです。はじまってしまってはそれまでです。はじまる前にいつもそのことを考えているべきなのです。

 戦争が人間の本性にそれほど深く喰いこんでいるか。わたくしたちはいまの世界の動乱やテロ行動をみるにつけ日々それを実感させられています。ですから、単に戦争の外形的な悲惨さ、非情さ、残虐さを強調するだけではいけないのです。それだけでは、平和を守りえないことは歴史が証明しています。ですから、自分たちの日常生活から戦争につながるようなことを、日々駆逐する。そのほかにいい方法はないのです。そう、わたくしは自分の体験から学んでいるのです。」

―――――――――――――――――――――――――――――――――ここまで引用です。

 守るための戦いには参戦すべきだ。とかこういうのはよしとするとかいうへ理屈は実際の戦場という狂気の中では、まったく意味がないという指摘はたくさんの人が指摘しています。それは、とても納得できます。そして、さらに、平和のためには、何が重要か、人間はどのようにもなるんだ、と言う実体験から書かれたこの文章の重みを、今こそ、ちゃんと捉えていたいと思います。

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コメント

うちの母は大阪出身で、東京大空襲の3日後に襲った空襲の際は、四国の田舎(親戚)のところへの疎開を数日後に控えていたそうです。その時、母は小2で、中学生・高校生の2人の兄と両親は消火活動に出かけ、母は乳児を持つ隣のおばさんと一緒に火の中を逃げまどったと。

幸い、母も家族も無事でしたが、家は焼かれ、そこから疎開予定だった四国の親戚の田舎に行きましたが、その際も船が狙われたそうで。テーブルに座って母の話を聞いていましたが、「この距離(母と私の隣通しの距離)の人がなくなっていた」とも。そんな話を私は小学生の時から何度も何度も聞かされて育ちました。

聞いた話だけでは、読んだ話だけでは、経験者からすると「そんなもんじゃない」のかもしれませんが、こういうことは語り継がれていかなければならないことだと思うのです。

母と一緒に逃げたお隣の奥さんがおぶっていた赤ちゃんは、背中で亡くなっていたそうです。

合唱作品にもたくさん、戦争を題材にした、音楽としてもすばらしいものがあります。古典や初演とあわせてそれらを歌い継ぐこと、合唱に、国威発揚ではなく平和への強い願いとして取り組めることを守って行きます。極限状態で、人間は豹変する、それも忘れずにいます。りょうさんありがとう。

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