
チューバって、あのでーっかい楽器です。メロディを奏でるものでは基本的にないですよね。ボンボン、ぼ、ボボン、ボンってやってるヤツっていうイメージです。
この楽器にほれ込んでしまった(たまたま、中学でブラスバンドに入ったときに、体が大きかったので、チューバ担当になったのが最初)、その後、学校を卒業したら、部活をやめたら、吹かなくなるだろう楽器なんだけど、1人暮らしになってアルバイトで貯めたお金を全部つかってチューバを買い、荒川の河川敷で吹いているという変わった女性が主人公。
この人の音楽、そしてチューバを吹くのが、彼女の音楽なんだけど、その音楽の表現が面白い。
「音楽をやっている人間たちの大半、おそらくは99%かそれ以上は、実のところ、本当の意味で音楽をやっているわけではないのだ」「自分たちのやっていると信じる音楽を包括してくれるジャンルの中に居場所を求め、そのジャンル全体の認知を裏切らないことを最上の価値とするのだ」「そこに様式美はあるが、面白みはない」「要するに、皆いくつもの小島の周りを泳いでさんご礁の海を楽しんでは居るのだ、しかし、どんな波がくるかわからない外海へと向けて泳ぐ意志と力はないのだ」
といって、彼女は、オーケストラなど集団で音楽をせず、チューバなのに、1人で吹くことを手放さないのです。
ある偶然から、ゆるーーいチームの中でチューバを吹くことになって、インデペンデントのチューバ吹きと、そのチームで演奏をして回るというのの両方をやりながら、彼女は自分の立ち居地を探しています。
そして、たとえ、どこで吹いても、どういう形で吹いても、自分は「個」としてチューバ吹きなのだ、という境地に達する気持ちの昇華までが書かれています。ふーむ、私の知らない世界、吹くということに取り付かれた体験したことのない気持ち、自分と他人との折り合い(この場合、チューバっていうボ、ボン、ボンボンの楽器であることがとても意味があると思うのだ。フルートだったら、ここまで他人とかチームを意識しないでいられるような気がする)、そのあたりをしつこく、しつこく考えたんだろうなあ。
かなり理屈っぽい人にもお見受けします。
「趣味というのは、余暇の過し方といえば、聞こえがいいが、結局のところ社会性を持たない自分の内的な欲求だからだ」「突き詰めても自分本位の手前勝手なものだ」「趣味を下支えする真理には、どうにも御しがたい内発性があるのだ」「それはよしたまえといわれて、はい、左様ですかとスイッチを切るように泊めることのできる趣味ならば、当人にとって、しょせんその程度の価値のものであったに過ぎないのだ」
という彼女の、この本での趣味が、ひたすらチューバを吹くことなんですね。ね、変わってて、おもしろそうな人でしょ。
瀬川さんは始めて読む作家さんです。1974生まれの小児科医。3編が入ったこの中編集の、表題作で太宰治賞(なんでも賞があるのね)だったようです。あとの2編は、あんまりだったなあ。彼女がチューバを吹くのか、何か楽器を1人でやるのか、はてはて、かなりの凝り性なのか(他の中篇もそんな気配が濃厚)、そんなことを想像しちゃう人です。これからの方ですね。さてさて、どう化けるかな。
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